彦松志朗の日記

ピアノへの思いと、日々のモヤモヤに対する考察

失われつつある記憶

 親の物忘れが、この半年ほどで甚だ酷くなってきた。思い起こせば10年ほど前から親との会話に違和感を覚えることがあった。
 しかしながら、それは100回に1回程度のことであり、漠然とした不安を抱えながらも、気にしないふりをしてこれまで過ごしてきた。
 ところが、この半年で状況はかなり進行した。家族のみならず、年に1,2回程度しか来ない親戚にも心配されるほど、物忘れや異常行動が目立つようになった。
 お金のやり取りを忘れる。物を受け取ったことを忘れる。物をしまった場所を忘れる、物をしまったことを忘れる。約束の時間を忘れる。たった今言われたことを忘れる。たった今言ったことを忘れる。突然ふっとどこかに行って、帰ってくる。きれい好きだったのに、片付けができない、物を捨てられない。買ってきたことを忘れて、同じものを買ってくる、それを繰り返すので、物が溜まる。怒りっぽくなり、家族とのいさかいが増える。
 この状況ににどうにかしなければいけないと思い、親を連れ病院で検査を受けた。診断の結果は、認知症ではないものの認知症的な症状はあるというものだった。確かに、おかしな行動はあるものの、日常会話はできるし、料理もできる。自分自身の身の回りのことは支障なくできるのだ。完全な認知症ではない。そのことに安堵しつつも、治ることなく着実に進行していく症状に恐ろしさを感じた。
 今はまだ完全に親子の意識はあるが、今後そんなこともすっかり忘れてしまうのだろうか。子どもの顔を見ても誰だかわからず他人行儀になる日が来るのだろうか。
 これが、認知症ではなく身体的な病気だったらまだ、覚悟を決めることができたかもしれない。でも、まさか自分の親が認知症になるなんて信じられない気持ちでいるし、受け入れたくもないのだ。体は健康なのに、これまでの記憶を確実に失っていく。子どもが誰なのか分からなくなっていく。
 認知症の残酷さをこれから徐々に確実に味わっていくことになるのだろう。

大嫌いで大嫌いでとにかく大嫌いな言葉

この世の中に、人を蔑む嫌な言葉は数多くあるが、その中でも「やって当然、できて当たり前」という言葉は本当に嫌な言葉だ。一体何が当然なのと思う。できるようになるまでにそれなりの苦労があるわけだし、時間と寿命を費やしている。そういう言葉を相手に言うことで、優位に立とうとしているのだろうか。費用を値切ろうとしているのだろうか。

 

この言葉は、成し遂げた人間の努力をないものにし、言った人間を勝者にする

 

でも、かつて俺もこの言葉を多用に使っていた。親にも妻にも子どもにも、そして、自分自身にも。親なんだから子どもを育てて当たり前、妻なんだから夫の意見を受け入れて当たり前、子どもなんだから親の言うことを聞いて当たり前、そして、これくらいの業務量をこなして当たり前、休日返上して仕事を優先するのは当たり前。

 

今、振り返ると本当に無機質な時間を過ごしていた。何かをしてもらっても、評価せずそれと同時に自分も評価されない。やったことに対しての苦労だけが蓄積される。

 

何を機会に考えを改めたのか。それは、自分自身が相手から、「やって当然、できて当たり前」という対応を、立て続けに、それこそ当然のように受けたとき。ものすごく苦労をして、グレーを白にすべく様々な調整をして、ようやく結果を出した時に、結果だけを当然のごとく持ち去り、感謝の言葉ひとつもなかったとき。この時、この言葉の残酷さを重い知った。受けとる側にとっては、非常に都合の言い言葉だが、当事者には何も残さない。

 

だからそれ以来、俺はこの言葉を使わない。些細なことであれ、自分のためにしてもらったことには感謝の言葉を伝えるように心がけている。何かをしてもらうということは、その人の時間だけでなく寿命も消費しているのだから。

体調不良が続いている。

ここのところ、体調が良くなくて、ピアノに向かう気力も湧かない日が続いていた。これまで、体調不良が続くなんてインフルエンザに罹患したときぐらいだったのだが、いわゆる男の更年期というものなんだろうか。寝ても疲れが抜けず、体が重い。体調不良に連動して、何をやるにも面倒くさくて、腰が重い。頭に靄がかかったみたいに、スッキリしない。好きだったワインもコーヒーも止めてしまった。止めて一週間経つが、また飲みたいとは思わない。

 

以前はこんなこと滅多に無かったのに。きっと、これからこんなことはどんどん増えていくんだろうなと思う。これは、ピアノを弾くことも同じだと思う。楽譜が見えにくいとか、ずっと座っているのが辛いとか。だから、今のうちに色々な曲を弾けるようになりたいと思う。思ったところで、なかなかできないのがピアノを弾くことの難しいところではあるのだが。

 

 

薔薇の前にはモヤモヤも霧散する。

日曜日ということもあり、明日からの仕事を思うと朝から気が重かった。ただ、天気が良かったのが救いだった。風も気持ち良かった。洗濯物を外に干して、家庭菜園の草むしりをしてみた。生い茂っているスギナをむしり、掘り返した土の香りを嗅ぎながら、人は土から離れては生きていけないのだと認識する。小さいながらも畑を作って良かった。どうせ手入れをしないからといって、コンクリートで固めなくて良かった。

 

買い物のついでに、無料開放されている薔薇園に行ってみた。青空のもと、大輪の花を付けた薔薇が見事に咲き誇っていた。姿かたちといい、香りといい、気品があって、そして孤高であって、ひとつの確立した生き様を見せられたようだった。どの薔薇も他に忖度することなく、堂々とその姿を見せている。その姿を前に、朝からのモヤモヤは霧散した。残ったのは、完膚無きまで敗北したような清々しさだった。

週末を全力で過ごす。

仕事が超絶につまらない。だから、仕事から解放される週末は一分一秒を全力で過ごしている。庭の草むしりなんて後回しにする。ピアノを弾く時間、テレビや漫画を見る時間、ダラダラしている時間、自分でコントロールできる時間全てを大切にして、寝る寸前まで週末というネクタルを味わっている。

 

週末は何をしようかワクワクするし、あれもこれもとやりたいことが沸き上がってくる。ただ、これが日曜日の夕方になると気持ちに余裕なんてなくなってくる。

 

毎日が土曜日ならいいのに。飽きもせず、毎週同じことを思っている。昼間から酒を飲んで、好きなものを食べて、好きなときに寝る。とにかく自分の好きなような行きたい。残念ながら、今のところそんな生活はできない。

 

何度も言うが、仕事が超絶につまらない。何かの本で仕事を懲役と表現していたが、まさに今の俺の状況はそれである。仕事が楽しくて仕方がない。ワクワクして仕事に取り組んでいる。そんな状態をぜひ味わいたいものだ。

 

仕事が楽しくないのなら、自分で楽しい状況を作り出すとか、楽しい部分を見つけ出すとか、そんな自己啓発もあるけれど、正直なところそれはほぼ不可能だと考えている。仕事が楽しくないというのが、その職場での最適解なのだから。だから、どこを探しても楽しさを見つけることはできないのだ。

 

だったら、そんな仕事に見きりをつけて別な生き方を目指すか。これもできない。なぜなら、「別な生き方」に何の具体性も持ち合わせていないから。この状態では、仮に仕事を変えたとしても、また今と同じことをぼやく羽目になる。

 

「遅くなっても待っておれ、それは必ずやって来る。」

 

この状態から抜け出せる日はきっとやって来る。そして、自分の望む方向に新たな歩みを進めることだろう。そうなれば、週末だけでなく、寿命が尽きるまで毎日ワクワクしながら全力疾走することができるのだ。そんな人生に舵を切ることができても、これまでの悶々とした毎日を過ごしてきた記憶は留めておくことにしよう。

 

 

 

 

仕事が超絶つまらない

ここ数年、いや、社会人になってから一度も仕事を楽しいと思ったことがない。

 

バブル経済崩壊後に苦労して働いていた両親を間近に見て、そして自分自身も就職氷河期世代ということもあり、定職があって、毎月決まった給料をもらえることはありがたいことだと思っていた。そして、それと引き換えに、仕事はつまらなくて当然だとも思っていた。

 

俺は与えられた仕事を消化することで、生活給をもらえる。給料をもらえるから人並みの生活ができている。つまらない仕事をこなすからお金をもらえる。仕事にやりがいや楽しみを求めるのは筋違いだ。辛くても遣り甲斐がなくても、定年までしがみつくんだ。そう思って、そう自分を納得させてここまでやってきた。

 

でも、仕事には時間だけでなく寿命も費やしていると気づいた時、このままではマズイと思った。自分の本意でないことに寿命を費やしている。思い返せば、毎朝憂鬱な気持ちで布団から出て、行きたくないと思いながら電車に乗って、このまま夜が明けなければいいのにと思って眠りにつく。こんなことをずっと続けてきた。そして、今後も同じく続くのである。毎日毎日毒沼を歩いてHPを削られている。そんな気持ちである。

 

どうにかこの状況を変えたい。このまま続けたらきっと死ぬときに後悔する。でも、どうやって?現実問題として、住宅ローンもまだまだ残っているし、子どもの教育にもお金が必要だ。今の時代に、しかもこの年になって、今よりもいい条件で雇ってくれるところなんてまずないだろう。とはいえ、今後もこの状況を続けるのは本意ではない。続けること自体は可能だが、それはお金と安定とを引き換えに、我慢と忍耐で敷き詰められた道を歯を食い縛りながら進んでいくことになる。

 

結局は自分の力で何かを引き寄せて何とかするほかないのだ。そして、その日は遅かれ早かれきっとやって来る。

 

 

今朝の出来事

今朝、子どもに逆ギレされた。
テレビを見ていた子どもに、学校に行く準備をしなさいと注意を促したところ、「きちんと準備をしている。テレビを見ながら朝食のおにぎりを食べている。」と怒りながら言い返された。ちなみに、我が家はテレビを見ながらの食事は何の問題もない。

 

言い返されたとき、少々戸惑った。ちょっとした注意で逆ギレされるとは思っていなかった。それは、子どもがまだまだ親を必要とする年齢だから、言われたことに対して言い返したりしないだろうという慢心もあったのだ。それが、もっともな理由で言い返してきた。状況をよく確認せずに、注意した自分が悪かったのだが、そこに、子どもの成長と同時に子どもが親から離れていく距離感をはっきりと感じたのだ。

 

その後は、子どもに正当な理由で言い返されたのが、照れくさいような、恥ずかしいやらで、それを隠すために笑ってごまかした。子どもの成長と共に父親は情けない存在になっていくということも認識した。

 

子どもを叱った後によく妻が「お父さんも注意してよ。」という気持ちが理解できたような気がする。自分の気持ちが置き去りにされたような気がするのだ。そして、その気持ちをどこかに預けたいのだ。さらに預けるとともに共有したいのだ。だから、第三者に預け先を求めようとする。今朝の自分はそうだった。妻に、子どもに叱られちゃったよと報告せずにはいられなかった。妻も同じ場所にいて一連のやり取りを見ていたにもかかわらず。