「こだわれない」という話
「こだわりがない」のではない。
「こだわれない」のである。
こだわれなくなったと感じたこと。それは、大好きなコーヒーがきっかけだった。以前は行きつけの店で豆を挽いてもらって、それをコーヒーメーカで淹れて飲んでいた。それが今は、近所のスーパーで買って来た徳用ドリップバッグで済ませている。正直なところ、ドリップバッグで淹れるコーヒーは楽である。飲み終えた後の洗いものもマグカップだけでよい。
ここで言いたいこと。それは、こだわりを捨てて、スーパーの廉価なコーヒーを買うことが生活の質を落としているということではない。むしろその逆なのである。自分なりにこだわりを持って行う行為も、面倒くさくて工程を省いた行為も、この場合において結果はほぼ同じなのである。ドリップバッグのコーヒーとコーヒーメーカで淹れるコーヒーの満足度は変わらないのである。
コーヒーの件はほんの一例だが、つまるところ、手間と時間をかけなくても、それなりに満足のいく生活をいつの間にか送ることのできる世の中になっていたのである。
世の中は質の向上に収斂していく。このことは、こだわるという行為に希少価値をもたらすことになるだろう。